PUSH-UP💫THE HERO
2024年4月7日
【腕立て伏せヒーロ伝説Ⅵ】
❶マッスルミュージカル(MUSCLE MUSICAL)で、なかやまきんに君、金子昇、永井大、賀集利樹、池谷直樹、武井壮ら有名俳優、筋肉タレント、筋肉芸人を差し置き、花形演目YMCAマッスルのセンターで3年間パフォーマンス。
❷フリースタイル腕立て伏せを日本で行った第一人者でトルネードプッシュアップ(360 Tornado Push Up)の離れ業をステージで披露。
❸台詞がない全てが肉体を使った世界一過酷な筋肉ミュージカルの稽古内容を公開。
腕立て伏せヒーロ伝説⑥~Legend of PUSH-UP THE HERO~
「マッスルミュージカル MUSCLE MUSICAL」
2001年(26歳)の時、後に全国区の知名度へと急成長するTBS主催の筋肉ミュージカル2001 Try outの第一期メンバーに招聘されました。
私の場合は、前年の三色筋肉1位の実績を筋肉番付を作った男、樋口潮プロデューサーに認められての番組からのオファーで、当時土曜夜7時に放送していたTBS筋肉番付のマッスルミュージカルメンバーオーディションに参加する事になりました。
マッスルミュージカル・オリジナルメンバーとして舞台とTVで活躍した事で、2006年YouTube元年に始まったフジテレビの動画共有サイト「ワッチミーTV」の目に留まり「超人発掘列伝ザ・パフォーマーズ」の企画を始動。
3年で100名もの超人を発掘しお台場冒険王などビッグイベント出演やテレビ番組に数多のパフォーマーをキャスティングしました。この3つの出来事がキッカケで2007年に超人プロが誕生します。
実は当初マッスルミュージカルのリーダーは、やり投げ日本2位の照英ではなく、ケイン・コスギでした。
ケインが性格的に集団行動が苦手なタイプだったらしく出演を断ったと聞きました。ウイキペディアにも載っていない情報です。
本番では、スポーツマンNo.1決定戦のクイックマッスル3分間腕立てで活躍していたなかやまきんに君、池谷直樹、後にブレイクする武井壮ら筋肉タレントを差し置いて、YMCAマッスルというスピード腕立て伏せの演目のセンターでパフォーマンスしました。
一度きりの企画で終わるはずだった筋肉ミュージカルですが、視聴率が良かった為、マッスルミュージカル2002 ACT ON MUSCLE、2003 LOVE OF MUSCLE(赤坂ACTシアター)、SUMMER(新国立劇場中劇場)、地方公演と続くことになります。
2002年以降は戦隊ヒーロー出身の俳優も多く出演。金子昇、永井大、賀集利樹とも共演しました。
3名とも当時スポーツマンNo.1決定戦にも出演していたので、稽古の時にクイックマッスルで回数を出すコツなど腕立て伏せの専門家の立場から教えたりしていました。
クイックマッスルと言えば、マッスルミュージカルのプロデューサーでもあった樋口潮さんが何故腕立ての競技を筋肉番付に作ったのかという話を聞いたことがあります。
プロデューサー自身が腕立て伏せが好きで趣味が高じて出来た競技で、3分間腕立てのシミュレーションをも自ら行っていた時期もあり最高300回の記録を出したという都市伝説のような話しも聞きました。自身が出場してたら優勝してたかもしれない位の腕立ての超人ですよね。
1995年に筋肉番付でザ・ファイナル・プッシュアップの大会を企画したのが32歳の時なので、体力的にも可能性があり300回の伝説もうなずけます。この大会をTVで見たのが腕立てに目覚めたキッカケなので樋口さんは私の人生を大きく変えた1人です。
あと共演者で思い出深いのは武井壮です。
まだ無名の頃に共演していて、「野球部」というマシュマロを使った演目で一緒でした。
2003地方公演あたりから採用された新演目で遠くからマシュマロを投げあって口でキャッチする内容ですが、とにかく本番で失敗ばかりするかなり難易度の高い演目で地方のホテルで深夜の居残り特訓をしたり、激を飛ばしたり当時から武井壮は熱かったですね。
笑っていいともで、弊社所属の縄跳び超人をキャスティングした時に武井壮と10年ぶりに再会した時に、会うなりコンマ1秒で私と認識してくれたのは流石だと思いました。というのも2003年の金髪ガングロタンクトップキャラだった頃の私と、2013年のスーツに眼鏡キャラでは同一人物と認識してくれないと思ったからです。その後もテレ朝で逆立ち超人しゃちほこと歩いていた時にすれ違った際に気付いてくれ声をかけてくれたり、同じ超人キャラとして目標とすべき1人ですね。
今世界でブームとなっているフリースタイル腕立て伏せを、日本でいち早くパフォーマンスに取り入れた第一人者でもあり、2003年当時は世界でも珍しかった360トルネードプッシュアップ(360 Tornado Push Up)の離れ業をステージで披露し注目を浴びました。
今だと那須川天心が腕立て伏せパフォーマンスで行っている事でも有名な技です。
2003年SUMMERの公演から、私の演目「YMCAマッスル」で演出家、中村龍史さんに課された220BPM(1秒間3.66回)という、高速腕立て伏せを超える超速腕立てを行う事になったのがキッカケで、スーパーハイスピード腕立ての訓練を本格的に始め、同年のTBS体育王国アーティスティックパフォーマーのコーナーに繋がります。
当時のマッスルミュージカルメンバーの中でも群を抜いたフィジカルモンスターと呼ばれていたのを裏付ける練習量です。
2003年の体力は私の人生史上最も高かった1年なので、1999年に達成した1時間腕立て伏せの記録をより進化させた負荷の高いフォームでも70%の力で軽く更新出来る位の実力を持っていました。
そして2003年地方公演で各都市を回りました。
私の中で最も印象深かったのが、8月26日の長崎公演でした。公演前日にNBC長崎放送の報道番組でマッスルミュージカルの特集が放送され、私の演目「YMCAマッスル」がメインで扱われた影響もあり、私が長崎市公会堂のセンターに登場した時に観衆から今まで浴びてきた何十倍もの歓声と拍手が起こったのです。
腕立て中も歓声は止まず、腕立て伏せを終えた時の「ピンポーン」で1700人の拍手はピークを迎えました。
あの日の興奮と感動は今後二度と味わえないだろうなと思った身震いする贅沢な空間でした。
腕立て伏せが終わった後の一言は「ギャグパート」で私が毎回日替わりでネタを考えました。戦隊ヒーロー俳優が出演していた時は謎の「カフェイン増量」の言葉で変身ポーズをしていました。受けたり受けなかったりでしたが、一番安定したいたのが「ピンポーン」だったので一番多く披露したギャグでした。
あの厳しい演出家、中村龍史さんもこのギャグパートに関しては一切口を出してこなかったので自由にやらせてもらっていました。
鹿児島公演の千秋楽が終わった時にロビーで演出家の中村龍史さんと樋口潮プロデューサーが感動する言葉を言ってそれキッカケでほぼ全員が号泣していました。
トライアウト公演で、泣かなかった私ですら泣いてしまう位の何か予感を感じさせる異常な空間でしたね。
腕立て伏せの能力だけで選ばれた私は、腕立て以外のダンスやリズム感の能力が著しく低く、私の出演はほぼメインのYMCAマッスルと全員参加の演目のみと限定的でした。
あまりのリズム感の悪さに怒った中村龍史さんにスリッパを投げられた唯一の男だと思います。そんな事も思い出しつつ、もらい泣きをしてしまったのかもしれません。
2003年の全公演が終了して数か月後、TBS体育王国の後継番組である黄金筋肉(ゴールデンマッスル)から連絡があり、1時間連続腕立て伏せのギネス世界記録に挑戦するオファーが来て出演が決まりました。
しかし出演決定後に放送されたマネーの虎がキッカケで出演が白紙になってしまいました。
私がプレゼンで披露した高速腕立て伏せが虎社長に評価されずノーマネーでフィニッシュした事が直接の原因でした。私の腕立てはショーアップされた舞台の照明と演出と音楽があってこそ凄さが伝わるもので、ただの会議室で百戦錬磨の虎たちに何の演出もなく高速腕立てをしても凄さが伝わらないのは多くのエンターテインメントを見てきた今なら分かります。
若気の至りから起こした失敗でしたが、放送後10分と絶たずしてマッスルミュージカルの広報から電話がかかってきて「問題になるかもしれません」と言われ、後日スタッフ間の会議を経て2004年以降決まっていた公演を降板する事になりました。理由は「間接的にしろマッスルミュージカルの評価を落とした」との事でした。
しかも黄金筋肉の1時間連続腕立て伏せのギネス世界記録に挑戦する企画まで同時に無くなったのです。
同じ制作会社だから感情論で動くのは致し方ないのですが、当時は何故?と理不尽に思っていました。
2003年時点でラスベガス公演の話も聞いていたので、ラスベガスで高速腕立てをする夢も消えたのは残念でしたが、私的にはギネス世界記録に挑戦する企画が白紙になった方が何倍もつらかったですね。
1999年の1時間腕立て伏せ初挑戦時の経験を活かして、肘の伸びを完璧にした改良フォームでも3600回以上練習で出来ていたので、もし挑戦出来ていれば腕立ての世界に今なお破られていないであろう金字塔を打ち立てられただけに天国から地獄に突き落とされたショックは大きかったです。
2003年8月29日の鹿児島公演を最後に表舞台から姿を消すことになります。
そして3年の充電期間を経て2006年に「超人発掘列伝THEパフォーマーズ」のコンテンツと出会い、不死鳥のごとく蘇り、フジテレビお台場冒険の舞台でカイデ団長として復活を遂げるのです。
超人発掘列伝ザ・パフォーマーズのお話しはまた別の機会にでも。
このように20代は、規格外のトレーニングで体を鍛えまり筋持久力を極めた10年でした。
普通46歳でベンチプレス20kg×連続1453回挙げるのは不可能です。
20年経った今でも衰えを感じさせないパフォーマンスと肉体を維持できているのは、肉体のピーク時期10年間で得た筋持久力貯金がマッスルメモリーとなって、本来40代中盤なら急激に衰えていく持久力の劣化スピードを恐ろしい位ゆっくりな速度にして抑えているのだと思います。
マッスルミュージカルオリジナルメンバーの経歴で得したこともありました。
千葉ロッテvs阪神戦のスペシャルゲストとして始球式に登場し、千葉マリンスタジアム3万人の観衆の前に立てたり、フジテレビのとくダネ!に出演するなど、イベントやTV番組に呼ばれるキッカケになったので今では感謝しています。
私の夢は19年前と変わっておらず腕立て伏せでCMに出演する事です。
次回の腕立てヒーロー伝説は、TBS体育王国アーティスティックパフォーマーのコーナーで樹立した30秒間腕立て102回の裏話しや腕立てでスピードを出すテクニックの秘密などをお話しします。
腕立て伏せヒーロー伝説外伝「フィジカルモンスター伝説」
世界一過酷な稽古と言われていたマッスルミュージカルは、1日8時間の稽古を週6日で3ヶ月間行っていた。芝居や台詞ではない全てが肉体を使った稽古なのでその過酷振りが想像出来るだろう。
ハードな稽古に加えて更に私は、お金が無かったのもあり、当時自宅だった中野区野方から東京都大田区の人工島、京浜島の稽古場まで雨の日も風の日も毎日、アルバイトの新聞配達で使っていた重い自転車で通っていた。その距離は往復で44kmにもなる。更に毎朝新聞配達で階段を約2000段上り下りしていた。
京浜島に到着後は、稽古場近くの公園に立ち寄って腕立てのウオーミングアップを500回していた。
そんな折り、本番まで一週間を切ったある日、稽古していた体育館で腕立ての練習を行った所、右手の平の皮がペロッと赤身が見えるまで剥けてしまうアクシデントが起きたのだ。
原因は、3ヶ月近く週6で公園の剥き出しのアスファルトや砂利で手袋無しで500回腕立てを行った事による掌へのダメージが蓄積してたものが体育館のフローリングと手の平の汗が強い力でこすれ一気に爆発したもので重傷だった。
演出家にこっぴどく怒られたが、一週間で治る怪我では無く代役の効かない演目なので全公演、手袋、テーピング、ワセリン、痛み止めそして本番前に行う超集中状態ゾーン解放のウォームアップでアドレナリンとエンドルフィンを操作し乗り切った。
このページで紹介しているマッスルミュージカルの動画を収録した日は公演の中盤で怪我の状態も最悪を脱してたとは言え、手の平に激痛が走る中でのパフォーマンスだったとは思えないだろう。
マッスルミュージカル稽古期間の1日のスケジュールをまとめると
🕒03:00~06:00 新聞配達(階段の上り下り2000段)
🕥10:30~11:30 自転車移動(往路22km)
🕦11:30~12:00 公園で腕立て500回
🕛12:00~20:00 稽古(8時間の筋肉稽古&腕立て500回)
🕗20:00~21:00 自転車移動(復路22km)
🕘21:00~03:00 就寝
この肉体的ハードスケジュールを週6日休まず行っていたのだ。
当時のマッスルミュージカルメンバーの中でも群を抜いた体力怪物と呼ばれていたのを裏付ける練習量だ。
当時は1時間腕立て伏せのギネス世界記録を70%の力で軽く更新出来る位の規格外の筋持久力スタミナを持っていた。
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